アリス・フェルネ「本を読むひと」読了

「本を読むひと」

アリス・フェルネ

デュランテクス冽子 訳

新潮クレスト・ブックス 2016年

評価 ★(読んでよかった。あるいは、損なし)  ★は最高で三つです。

〈雑感〉

登場人物は、パリ郊外に不法に滞在するジプシーの大家族(家族長の母親に息子5人、その嫁4人、孫8人)とひとりの図書館員。

図書館員エステールは幼い子どもたちに本を読み聞かせるため、週に一度ジプシーの家族のもとに通う。彼女を「外人」と呼ぶ家族長アンジェリーヌはそれを容認する。そうした日々の中でエステールとアンジェリーヌ、本(お話)が大好きな幼ない子たちの間に少しずつ心が通い合う。

というお話なのだが、何も起こらない。いや、事件は起こります。三男の嫁が旦那の暴力がいやで家を出て行ったり、次男の息子がひき逃げにあって死亡したり、四男の嫁が何度目かの流産をしたり、いろいろ。だけどそれはジプシーの生活として「起こりうること」として書かれている。「外人」と呼ばれるエステールが足を踏み入れたがために起こった化学反応ではない。

実際には、孫の中の最年長アニタを学校に通わせるという「変化」はあった。化学反応の一つではある。あるのだが、どことなく熱量が少ない。大変な事件として書いていないのだ。校長や役人を説得するエステールの努力は何度も描かれた。通い始めたアニタの差別による苦痛も語られる。でも、どこか淡々としている。

作者はエステールの目を通して見たジプシーの一つの典型を記録したかったのだろう。何百年も何も変わらないジプシーの生活。変えようともしない意識。そのあたりは死ぬ間際のアンジェリーヌの言葉にまとめられていた。「一生涯あたしは貧しくて運がなかった。でもいつでも自分の人生が好きだった。そしてこれからは天国が好きになるんだ」。諦観、そして、それ故の不変。

男は日がな一日ブラブラ過ごし、嫁たちは家事も育児も一人でこなす。子供たちは家の周りを駆けずり回り、落ちている鉄くずや小銭を探す。居住許可があってもなくても気にしない。強制的に撤去させられたら文句も言わず別の土地に移るだけ。

こんなやり取りがある。「(エステール)説明してちょうだい。何も言ってくれなかったら助けてあげられないじゃない、と声を高める。あんたになんか助けてもらう気はないんだ、と話を聞いていたシモンがどなる」。『助けてあげる』という立場の「外人」と常にそれを拒否するジプシー、という図式。

あるいは撤去させられる日のこんな記述。「警官たちは突いて進ませようとする。警官の一人が彼女らの誰かに触れようものなら、彼女ら特有の侮蔑した態度で振り放す。人に自分の心を委ねたりしないというプライドだけが、彼女らの唯一所持するものだったからだ」。ジプシーの「プライド」、それもジプシーの女たちだけが持つ「プライド」が語られる。

こうして整理してから全体をふり返ると、「何も変わらないのを良しとしプライドも高いジプシー一家の中から子供たち(エピローグによると合計4名)が学校に通うようになった」ことは、やはりとんでもなく大きな「変化」だったのだ。いろんな事件と同等の扱いをしていたので埋没しかかっていたが、アニタが初めて学校を経験したことは、大事件であり「大変化」だったのだ。さりげなく埋もれさせたが実は凄いこととエピローグでやっと気が付くとは、それが作者アリス・フェルネの狙いだったようだ。まんまと引っかかった。そんな読後感です。